新城・勝手に応援隊 › 2016年03月18日
2016年03月18日
鳳来東小学校でただ一人の卒業式
今日は公立小学校の卒業式でした。
愛知県では974校(分校を含む)で卒業式があり、6万9377人の児童が巣立ちました。
鳳来東小学校では、ただ一人の卒業生鈴木ちほさんが卒業。在校生、教職員、保護者、来賓ら30人がちほさんの門出を祝いました。
鳳来東小は、ホルンの演奏やガンピを使った和紙作りなどを伝統にしています。ドングリ植樹活動、卓球などをがんばっています。
この日の卒業証書も自分で作った和紙を使ったもの。自作和紙の卒業証書を手にしたちほさんは「同級生がいなくてもみんながいたからがんばれた。運動会で鈴を割ったこと、鳳来地区の卓球大会で優勝できたこと、みんなを引っ張っていこうとがんばったこと・・・どんなことにも努力し、決してあきらめないことを学んだ。自分でも成長したと思う。お父さん、お母さん、先生方、地域の方々、多くの人たちのお蔭で大きく成長できた」と感謝しました。卒業の歌を涙を流しながら独唱する姿は感動的でした。
滝川安広校長先生は、「持ち前の責任感の強さと明るさで全校を引っ張り、伝統を守るとともに、新たにたくさんの種をまいてくれた」とリーダーとしての活躍をたたえました。そして最後に「これまでは一人でやってきたが、これから甘えたりわがままを言ったりできる同級生がいる。遠慮せず自分を表現して思いきり羽ばたこう」と、はなむけの言葉を贈りました。来賓には「ちほさんは、教職員にとっても自慢の子どもです」と話しました。
ちほさんが4月に進学する鳳来中学校では、1年の同級生が74人。ちほさんなら、友達をいっぱいつくり、どんなこともがんばることでしょう。






愛知県では974校(分校を含む)で卒業式があり、6万9377人の児童が巣立ちました。
鳳来東小学校では、ただ一人の卒業生鈴木ちほさんが卒業。在校生、教職員、保護者、来賓ら30人がちほさんの門出を祝いました。
鳳来東小は、ホルンの演奏やガンピを使った和紙作りなどを伝統にしています。ドングリ植樹活動、卓球などをがんばっています。
この日の卒業証書も自分で作った和紙を使ったもの。自作和紙の卒業証書を手にしたちほさんは「同級生がいなくてもみんながいたからがんばれた。運動会で鈴を割ったこと、鳳来地区の卓球大会で優勝できたこと、みんなを引っ張っていこうとがんばったこと・・・どんなことにも努力し、決してあきらめないことを学んだ。自分でも成長したと思う。お父さん、お母さん、先生方、地域の方々、多くの人たちのお蔭で大きく成長できた」と感謝しました。卒業の歌を涙を流しながら独唱する姿は感動的でした。
滝川安広校長先生は、「持ち前の責任感の強さと明るさで全校を引っ張り、伝統を守るとともに、新たにたくさんの種をまいてくれた」とリーダーとしての活躍をたたえました。そして最後に「これまでは一人でやってきたが、これから甘えたりわがままを言ったりできる同級生がいる。遠慮せず自分を表現して思いきり羽ばたこう」と、はなむけの言葉を贈りました。来賓には「ちほさんは、教職員にとっても自慢の子どもです」と話しました。
ちほさんが4月に進学する鳳来中学校では、1年の同級生が74人。ちほさんなら、友達をいっぱいつくり、どんなこともがんばることでしょう。


2016年03月18日
ミズバショウ咲き始める・・・下吉田の満光寺
「夏が来れば思い出すはるかな尾瀬・・・・・水芭蕉の花が咲いている」
「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)の歌でも知られるミズバショウの白く可憐な花が下吉田の青龍山満光寺東庭園で咲き始めました。
ミズバショウは中部以北の山地・高地の湿地に分布。実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろで、これは尾瀬の季節でいうと春先にあたるそうです。下吉田は気温が高いので、南限と言っていいかもしれません。そのため早く咲き3月下旬が見ごろとなります。作手の鬼久保でも同じように咲き始めています。奥三河は少しずつ遅れて咲いていきます。
葉と葉の間から開いた純白の仏炎苞(ぶつえんほう)は花に見えますが、実は芽やつぼみを保護するため変形した葉だそうです。
東庭園には現在60本ほどのミズバショウがあり、今週に入り次々に花を開かせています。
お寺の世話をしている近藤登美子さんは「昭和12年以前から育てられていることははっきりしているが、それ以前のことはよくわからない」と話してみえ、昔から育てられているようです。

満光寺の庭園は庫裡の北に南面し、自然の山を背景として築かれ、庭園の総面積は1,142.77㎡、書院庭園(北庭)と庫裡庭園(東庭)の二庭から成り立ち、一庭のように巧みに組み立てられたものです。江戸時代中期の様式と見られています。
【満光寺に伝わる逸話】
武田軍に追われた徳川家康が満光寺に宿泊し住職に翌朝一番鶏が鳴いたら起こしてくれるよう頼みました。その日に限っていつもより早く一番鶏が鳴きましたが住職は約束どおり家康一行を起こし、家康たちは出立しました。
直後に武田軍が到着。家康は一瞬の差で助かりその礼として満光寺の鶏に三石の扶持を与えたということです。
山の吉田の 満光寺様の
鶏(とり)になりたや鶏(にわとり)に
※その後、徳川家光から寺領二十石を与えられました。