2014年10月22日
宗堅寺と新城小学校の「品」
宗堅寺(新城市宮の前)は、慶安元年(1648)に菅沼定実 が丹波亀山から新城城 に移封の時にこの地に移したもので、菅沼家の菩提寺でもあり、墓地には初代定実から11代定長までの菅沼家歴代の墓があります。
また、元亀4年(1573)、武田信玄 が菅沼定盈(さだみつ)の守る野田城 を攻撃した時に、城内から聞こえる笛の音に誘われて出てきた信玄を鳥居半四郎が撃ったと伝えられている鉄砲(信玄砲)が保存されています。
信玄砲は、木部が失われ、頑丈な銃身の部分のみが残されています。銃身の長さ105cm重さ11Kgロ径20mm (十三匁)です。
さらに、宗堅寺で、1988(昭和63)年「船長日記(ふなおさにっき)」も発見されました。
「船長日記」については、下記の記事等をご覧ください。
中日メディカルサイト
東愛知新聞
宗堅寺の瓦には「品」という菅沼家の家紋がついています。
この家紋は、新城小学校の校章にもついています。
新城小学校の文集「みつくぎぬき」には、校章の意味が書かれています。
「みつくぎぬき」(三釘貫)の由来
本校の校章には、三つの正方形がある。これは、新城の城主であった菅沼家の家紋である。
むかし、菅沼家の祖先に新八郎資長という大力の武士がいて、京都勤番中に天皇の前に召し出されその力をご覧にいれた。その時、厚い板に深々と打ち込まれている三本の大きな釘を、きっきに引き抜いて、大勢の人の称賛を浴びたという。むかしの釘は、今の円とは違った方形であったので、釘を抜いた後には、三つの正方形の穴ができていた。それを形どって菅沼家の家紋ができたと伝えられている。・・・(略)・・・
Posted by ナツ at 18:06│Comments(0)
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