2024年05月07日
戦国の鉛争奪地「睦平鉱山」調査・・・有海の織田昌彦さん

大量の火縄銃が使われた長篠・設楽原の戦いの決戦地・設楽原(新城市竹広)で出土した鉄砲玉20個のうち、5個が新城市睦平(むつだいら)の睦平鉱山産の鉛であることがわかっています。現在廃坑となっているこの鉱山を、有海の織田昌彦さん(82)が現地に足を運んで調べています。
鉱山は標高461㍍の鉛山(かなやま)山頂近くにあり、昔は鉱山に向かう小径がありましたが、現在は消滅しています。そのため、鉱山に行くには10年前に作られ3年間使用後整備されていない作業道を歩き、途中から道のない斜面を進むしかありません。
織田さんは、数少ない文献や調査報告などを調べるとともに、この地を4度調査してきました。
設楽原の決戦4年前の1571年に記された家康の家臣に鉱山採鉱の権利を認める文書があり、織田・徳川軍の鉄砲玉の鉛に使われていたであろうことを裏付けています。八名郡誌(大正15年発行)には、採掘者を代えながら大正時代まで採掘が行われていた記録があります。新城市能登瀬出身で当時42才の藤城豊氏による昭和25年調査で、坑道が19か所発見されました。3箇所には10㍍ほどの坑道が残っていたそうです。現在はほとんどが埋まっています。
坑道近くには鉱山の安全を願う「山ノ神」石祠(せきし)があり、碑文には「大正五年九月建立 静岡市札之辻町 岡部安治郎」とあります。岡部は最後の採掘者です。
織田さんは「地元でも睦平鉱山のことを知る人はほとんどいない。今のうちに記録として残しておきたい」と話します。
戦国期、鉄砲用の鉛の多くがタイや中国から輸入されていたと言われます。設楽原出土の鉛玉は約70%が日本産鉛と推定(平尾良光氏の報告)されていますが、日本のどこの鉱山の鉛かはわかっていませんでした。
2020年、設楽原をまもる会名誉会長の小林芳春先生が、日鉄住金テクノロジー解析技術部分析技術室に鉛同位体比測定を依頼。翌年、睦平鉱山産の鉛が使われたものがあったことがわかりました。
詳しくは、小林先生著『長篠・設楽原の戦い』鉄炮玉の謎を解く」(黎明書房)をご覧ください。


