2017年06月30日
井伊家とゆかりのある宇利城
井伊家とゆかりのある城ということで、訪れる人も多くなっている中宇利にある宇利城。井伊谷三人衆の一人近藤康用(やすもちi)の居城だった宇利城は、現在山林となっていますが、お城の遺構はよく残っています。
本丸を中心に、北、東、西南方向に尾根が伸び、それを利用した曲輪や堀などがあります。本丸は土塁に囲まれた削平地になっていて、石碑もあります。
本丸への登り道途中、宇利城攻めの時に戦死した松平右京亮の墓や、井戸の跡もあります。
当時は立派な山城であっただろうと想像できます。
駐車場は、中宇利信号横にあります。
入り口には、花が飾られパンフレットが置いてあります。
【城郭の歴史】
享禄3年(1530)11月4日、松平清康は三千余りの軍勢を率いて、東三河をめざし岡崎を出発した。東三河は今川の勢力範囲であったが、氏輝の代になるとその力も失われていた。
清康はこの機に東三河を手に入れようとした。吉田,田原,牛久保,作手,田峯,野田,西郷,伊那,設楽などの城主は清康に従ったが、宇利城主熊谷実長はなかなか従わないので、宇利城へ向けて攻撃が始まった。
野田城・城主菅沼定則を案内として東上(一宮町)で豊川を渡り、八名井の今水寺で休息し、宇利に向かった。城の大手には松平右京亮親盛(清康の叔父)、松平内膳正信定(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の奥平貞勝が先導した。この戦いで城方370余命、松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮が討ち死にした。
宇利城は三方を山に囲まれた天然の要害で清康は苦戦したが城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いに落ちのびていった。 (新城市教育委員会)