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2014年3月で、38年間の教職生活を終えました。
自由な時間の一部を、愛する新城の情報発信に使っていきたいと思い、このブログを始めました。
始めると、様々な出会いや発見があり、毎日が違う輝きを持つようになってきました。思いがけず在宅記者もやることになりました。
以前子どもたちによくこの言葉を贈りました。
“感激は特にがんばっている人に、感動は心豊かな人に、神様がくれたごほうびです”
自分はがんばっているわけではありませんが、様々な出会いのお蔭で感激と感動の連続。感謝の毎日です。
B型らしくマイペースで、すべてプラス思考で生きてきた自分は、これからもそう生きていきたいと思います。
好きな言葉は「人間にとって その人生は作品である」(司馬遼太郎)
<自作(?)のダジャレ>
お食事券で汚職事件、花粉飛散で悲惨、「つくねは、歯につくねえ。佃煮も、歯につくだにー」・・・


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新城・勝手に応援隊 › 歴史1(設楽原・長篠) › 歴史3 › 情報 › 関東の古書店で長篠城絵図発見される

2023年12月20日

関東の古書店で長篠城絵図発見される

 「関東の古書店で長篠城絵図発見」の記事がけさ、東日新聞に載っていました。
関東の古書店で長篠城絵図発見される

【東日新聞 けさ20日の記事】
 豊橋市図書館は19日、新城市にあった長篠城について江戸時代に地元の文化人らが研究した「分検長篠城之図」が見つかったと発表した。織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼軍を破った「長篠の戦い」に当時から大きな関心が寄せられていたことがうかがえるという。20~27日まで市中央図書館(羽根井町)に展示する。
 絵図は縦53センチ、横65・5センチ。市図書館の母体となった私設文庫「羽田八幡宮文庫」を創設した羽田八幡宮神主で国学者の羽田野敬雄(たかお)と、息子の茂雄が1864年に作ったものだという。同文庫が閉鎖された明治時代末ごろに流出し、所在不明になっていた。
 関東地方の古書店に絵図があると研究者から情報提供があり、同館が蔵書印から本物と確認し入手した。
 同館によると、絵図は羽田野親子より60年前に御津(現豊川市)の廻船問屋、渡辺統虎(とうこ)と赤坂宿本陣(同)の主だった政池(まさいけ)彦作が、長篠の戦いから約200年後に城跡を測量して作成した絵図をもとにしている。城郭図のほかに、長篠の戦いについて研究した内容が記述されているという。
 同館の岩瀬彰利副館長は「鉄砲が使われ、織田・徳川連合軍が勝利した長篠の戦いを江戸時代の東三河の文化人も歴史の転換点と認識し、高い関心を持っていた」と指摘する。

【堅固の城 長篠城】
 長篠城は宇連川(大野川)と豊川(寒狭川・滝川)が合流する地点に築城されており、南・西の二方向を急峻な崖に守られた「後堅固の城」となっています。その一方、平坦地である北・東側には曲輪や土塁・堀を複数配置しており、防御力を向上させていることがわかります。土塁と内堀 長篠城主郭の北東部には巨大な土塁と堀が残されています。土塁 は高さ約5m、長さ約80m に及び、横矢掛りを意識した屈曲がみられ ます。土塁に沿って幅10~15m、深さ約6m の堀が残存し、いずれも武田氏の侵攻に備え徳川氏により改修されたと推定されています。
【長篠城の歴史】
〈築城~今川時代〉
 長篠城は永正5年(1508)、駿河・遠江を支配し、三河にも進出していた戦国大名・今川氏の城として、国人である菅沼元成が築城したと伝えられ、代々菅沼氏の居城となっていたとされます。永禄3年(1560)、今川義元が 桶狭間の戦いで討死すると、今川支配下の三河は動揺し、その間隙をついて松平元康(徳川家康)が台頭しました。家康は長篠城を包囲攻撃し、今川氏側も兵糧を長篠城に入れるなど応戦したものの落城、城は家康の手 に落ちました。
【徳川と武田による争奪戦】
 長篠城攻略後、家康は三河・遠江の平定を進め、永禄12年(1569)、今川氏真を遠江掛川城で降伏に追い込み、今川氏を滅亡させました。しかし、甲斐・信濃を支配しており、今川領であった駿河を攻略した戦国大名・武田信玄との関係は悪化していきました。信玄は家康領内の国人の切り崩しを行い、その結果長篠城は信玄に味方することとなりました。その後信玄は家康領へ侵攻し、三方原の戦いで家康を破ると、野田城(愛知県新城市)を開城させるなど三河攻略を進めましたが、体調を崩し長篠城で療養ののち甲斐へ撤退を開始し、その道中で死去しました。 信玄の死去により家康は失地回復を企図し、長篠城を攻撃しました。信玄の後継者となった武田勝頼は配下の諸将に救援を指示したものの、火矢を用いた家康の激しい攻撃により長篠城は降伏開城、城には武田軍に従い退去した菅沼氏にかわって、家康配下の城番が配置されました。
〈「長篠・設楽原の戦い」と長篠城〉
 天正3年(1575)、家康は三河国人である奥平信昌を長篠城主に任じるとともに、破損していた城の修復を行い、兵糧を入れ置くなど、勝頼の侵攻に備えていました
 同年5月、三河へ侵攻した勝頼は15,000の兵を率い 長篠城近くの医王寺山に本陣を構え、向城として城の対岸に砦を築いて厳重に城を包囲しました。武田軍は野牛曲輪、弾正曲輪、瓢曲輪などを次々に攻撃し、500の城兵は鉄砲で応戦するなど果敢に抵抗しましたが、寡兵のため落城は免れないとし、鳥居強右衛門を家康のもとへ派遣し、援軍を要請しました。
 強右衛門は、鈴木金七郎とともに使者の役目を果たし、家康と織田信長の援軍は長篠付近の設楽原に布陣しました。勝頼は城の包囲を解き、設楽原で織田・徳川連合軍との決戦に及びますが、多くの将兵を失う大敗を喫し、撤退ていきました。
 長篠城は落城の危機を免れ、城主の奥平信昌は信長や家康から激賞され、名を上げました。 長篠城は戦い後、16世紀後半~末期にかけて廃城になったと考えられており、城の建物の一部は新城城や 吉田城に流用されたといわれています。

関東の古書店で長篠城絵図発見される関東の古書店で長篠城絵図発見される

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